10・19といえば。。。

ロッテの日本シリーズ進出、おめでとうございます。

私は帰り際、ラジオ中継でこの試合を聞いていたのですが、解説の松沼雅之さんが「10/19を意識しながら解説しています」という発言を聞いた瞬間に、あの頃の思い出が鮮明に思い出されました。野球で10/19といえば・・・そう1988年「なにかが起こる川崎劇場」で近鉄×ロッテのダブルヘッダーが組まれました。近鉄が連勝すれば近鉄優勝。近鉄が一つでも負けるか引き分ければ西武の優勝という試合。試合はもつれにもつれ、第1試合は近鉄が大逆転勝利。第2試合はなんと時間切れ引き分けで、西武にペナントが転がり込むというその時です。


1988年、秋にはソウルオリンピックがありました。その時、私は大学3年生。当時私はラジオ局のスポーツ部でアルバイトをしていて、オリンピック体制のアルバイトチーフを務めていました。その時、起こった天皇陛下の病状悪化。本来オリンピックなどは放送局、特に規模の小さいラジオでは部署を越えて、スポーツ部の応援をするはずだったのに、制作も報道も皇居詰めで人繰りがつかず、急遽アルバイトの増員で賄うことになり、チーフの私はてんやわんや。


おかげさまでなんとか乗り切ってさあ、今度はサークルの幹事として大学祭担当(文化の日近辺)の方を頑張ろうと思っていた矢先。10/19がやってきました。

もうナイター中継の季節は終わっていたのでアルバイトは詰めていなかったし、当時携帯なんてなかったので、局からの連絡なんてくるはずもないのですが、当時サークルの幹事長で、アルバイトではナイターのスコアラーのチーフ(今は名古屋某局のスポーツエースアナ)と夕方にいつもの通り、学生会館で会うなり、「きっとこれはスタッフが足りなくてまずいことになっているはず」という話になり、気をきかせて彼は局に急行。


その時、私の古巣の局のブースは大阪の局の近鉄向け放送のために貸し出されていて、急遽、その大阪向けの中継の音をその局はオンエアー。当然近鉄サイド向けに放送を行っていたため、当時「ライオンズひいき」を標榜していたその局はその中継で大騒ぎとなって、急遽、自社のスタッフを送りこむことになり、中継スタッフは自社ブースの屋根に乗っかり、中継を行うという後にも先にもこのときしかない経験を積みました。そのスコアラーも現場に派遣され、がばんを首から下げて、スコアを付けたと聞いています。

私は授業終わりで、夕方遅くに、局に飛び込みました。まずは大阪局用の中継のモニター。そして、しばらくして、その局の臨時中継の状況が整ったら、そちらも同録を取るという仕事をやっていました。

その日のテレビ朝日ニュースステーションの時間にまで食い込んだ川崎球場からの中継は40%を超える視聴率だったと後で聞きました。私にはその事実と、局の編成やスタッフの慌ただしい動きを目のあたりにして、マスコミ志望の気持ちがさらに高まった1日となりました。

あまりにも懐かしいあの頃。なにもかも新しい体験で一所懸命だったなぁ。