祈るような気持ち

箱根駅伝を見ながら、このエントリーを書いています。

ちょっと前にも書きましたが、私と箱根駅伝には浅からぬ縁があります。

私が大学に入学した年に、日本テレビの中継が始まりました。
その年、バイト代で買ったばかりのビデオに中継は録画しておいて、サークルの実況練習をする先輩に連れられて、沿道で生の箱根駅伝を始めて見ました。その頃、全盛だったのは順天堂大学。1、2年で山下り、3,4年で山登りした名選手がいました。

会社に入って4年目、27歳の時、10月になっていきなりチーフディレクターとして第70回箱根駅伝の際、文化放送初の全面中継を立ち上げることになりました。この大学時代のわずかな知識を活かし、撮ってあったビデオはアナウンサーの資料になり、順天堂の名選手仲村明(当時富士通の選手)さんは中継のゲストにお呼びすることになりました。(今、順天堂大学の監督としてご苦労されています。)

新しい中継番組を立ち上げるためには、あまりにも準備時間もスタッフの経験もなかったですし、中継10箇所以上、1日7時間程度の2日連続生放送ですから、スポーツ部の人員だけではどうにもならず、外部スタッフや社内の応援スタッフまで入れて、1日にラジオの世界では1番組では最大規模の70人ものスタッフが同時に別の箇所で1つのものを作るために動くことになりました。この時、年上の方にも協力をえないとならないし、年期がいかない若い人にも頑張ってもらわないとならない、自分の力だけではどうにもならない世界があって、任せることの重要性を痛感しました。中継はなんとか成功し、春に社長賞をいただきました。

その秋にいきなり営業に異動。でも社内の方々に手伝ってもらったご恩返しに毎年のように箱根駅伝の助っ人の中継ディレクターとして、外に飛び出しました。2年目は平塚、3年目はスタートとゴール、4年目は鶴見〜小田原、5年目は戸塚だったと思います。最初の年スタジオディレクターでその後、外の様々な現場を経験することで、箱根駅伝の広がりとスタジオだけでない利用方法を考えるきっかけができました。

その後、デジタル事業局に異動したときに、この知識を活かして駅伝の今を伝え、取材の息吹を残す専用ホームページを拡充。編成部に異動したときにはそれまで関東中心だった中継を全国中継にすることにたまたまなり、文化放送と全国ネット用で違うCMのタイミングを埋めるためのディレクターを務めました。いかに途中から聞くことになるネット局の方々の立場になって、どう中継を作るのかに腐心しました。

今はそれらの仕事はすべて後進に引き継がれ、さらに規模が拡大しています。

基本、自分が立ちあげてもそこで終わっては意味が半減。いかに次にバトンを渡すのかが重要だという思いはこの経験から得た実感です。せっかくですから、自分がやった仕事がなくなってしまうより、こんなに大きくなったと言えることはうれしいです。
また、中継が始まってしまえば、あとは現場がいかにやってくれるかで、あとは「祈ること」しかできません。(チーフがだめだめな指示をして、番組ぶち壊しにすることはできるので、そうしないようには頑張りましたが。)だから現場を信頼して、「自分で考え、自分で仕切る」重要性をみんなに感じてもらいたい。一人ですべてを指示することはできないですし、むしろ現場をよくわかっているそこで頑張っている人が自分で考え、提案し、実行してくれた方が、よい結果がでるはずです。
そして、いつ、「君の仕事はここまで」と言われてもいいように、そこまで全力を尽くそうなんて気持ちも常に持っています。

人生にとって無駄な経験なんて何もない。なにが今後に活きるかどうかは、今このこの瞬間にはわからない。だから、その場その場で全力を尽くす。それが後々活きてくるのだと思います。

だから、今も、仕事やぞの他のことで全力で頑張るみなさんを信頼して、「祈るような気持ち」で見守っています。

箱根駅伝はレースとしても、メディアの作り手として中継の仕組みをのぞき見る意味でも面白いのですが、私にとっては、今までしてきた仕事・生き方を振り返り、これからも考える意味でも大切な正月の行事となっています。