仕事の原点

最近facebookで懐かしい方からの連絡が来て、懐かしい気持ちに浸っています。そんなこともあって、今日は思い出話を。(ただFBの友達の中にはこの当時の私の仕事をご存じの方はいらっしゃいませんが。。。)


日本の夏といえば、うちわ、すいか、蚊取線香、花火・・・なんていろいろな連想がされますけど、そのうちにひとつに「高校野球」っていうのもありますよね。

実は私が始めて任された仕事は、この「高校野球の地方大会」でした。

首都圏のラジオ局ではNHKが当然決勝戦は中継しますが、なにしろ関東エリアは広いですから、一番よく電波の届く1都3県に絞っても出場高校の数は700〜800。NHKラジオ第1放送では東京の決勝を中継するものの、あとの大会はFM放送。ラジオでまともな地方大会に取り組んだAM局は神奈川に絞り込んだRFさんしかありませんでした。地方大会の結果もテレホンサービスか、地元のU局か夜のNHKテレビのローカルニュースしかない状態。ラジオは手つかず状態でした。

そこで当時の編成はエリア対策として高校野球への取り組みを企画。実行するのは、入社したてでまだ担当のない私と、たまたまなったわけです。

入社当時の1990年はまだインターネットもなかったので、まず初年度は1都3県の試合結果速報を結果が集まる朝日新聞の中の一角にマイクを置かせてもらって、1日3回生放送でお送りしました。入社2年目には速報に加えて東・西の東京大会の決勝中継にトライ。3年目には日々の速報は勿論のこと、千葉・東東京・西東京・埼玉・神奈川の決勝が月〜金にたまたま毎日1つあったので5日連続中継を敢行。

高野連への挨拶、解説者の手配、朝日新聞支局への資料提供のお願い、抽選会の取材等、6月から7月にかけてはほぼ休みなしの連続勤務でしたが、自分しか知らない世界がそこにはあって、特に大きなメディアでは1つの地域を担当するがやっとなのに、小さいおかげでなにからなにまで自分で仕切れる楽しさがありました。大変なんてものじゃないけど、やり遂げることの大切さを実感できました。

よく地方大会のことを「甲子園の予選」なんて言う方がいらっしゃいますが、都道府県の高野連さんにとってはあくまで「予選」ではなくて「地方大会」を争っているのだという思いが強いこともこの際、学んだことの一つです。

高校野球のニュースに接すると、仕事にがむしゃらに取り組んだ若き日のことを時おり思い出したりします。