『さかりをば見る人多し散る花の 跡を訪うことこそ情なりけれ』

休みの日、それもお盆休み中ともなると都心へ向かう人は本当にすくなくて、電車も余裕で座れます。

こんな時はゆったりと本を読むに限ります。行きは高校野球も気になったのでラジオを聴きながらでしたが、地下鉄に入るとそれもままならず、そこからは本に集中。本当は数日かけて読むつもりだったのですが、面白くて、立ち会いが終わって家に帰ってからも読み続けてこの本、378ページを先ほど読了しました。

山岡淳一郎著「後藤新平 日本の羅針盤となった男」

後藤新平氏といえば、関東大震災後、東京の復興計画を立てた方として有名です。そのスケールの大きさで「後藤の大風呂敷」と言われたほどの大きな構想でもしこれが実現していたら・・・のちの東京は大きく変わっていたと言われている方。

彼は元々東北の出身で、維新で武士を返上せざるをえなかった家に生まれ、苦労をしましたが、ある出会いから医者になるきっかけをつかみました。その後、医療ではなく、公衆衛生を普及させる道を選び、そこから様々なできごと、事件に遭遇。逮捕されてしまったり、疫病との戦いの際陸軍でのちに日露戦争等で活躍した児玉源太郎氏との運命的な出会いがあったりという様々な経験を経ながら、台湾統治の民政長官、満鉄の創業時の総裁、内務大臣などを歴任しています。

彼は人材集めに目がなく、また人が困っていると思うと助けなくてはいられない主義。そんな彼は、ある人の借金の連帯保証をしてあげたばかりに、あらぬ容疑をかけられ、投獄されまでされてしました。めげずに無罪を主張し続け、裁判の際、なぜ借金の保証をしたのか。と問われた時の彼の答えといえば・・・。(p26)


私は、父母から幼いころ、訓戒和歌集を授けられました。その中に『さかりをば見る人多し散る花の 跡を訪うことこそ情なりけれ』という歌がある。錦織が景気がいいときは誰もが寄ってくるが、誣告罪で入獄すれば世間に見捨てられる。こういうときに恵んでやってこそ情だと思い、判をついてやりました。

この時の借金は当時の3千円。今では億くらいの価値の保証というのですからその肝の大きさにびっくりです。お金は残らなくても後藤氏はその後も人材集めを続け、満鉄や東京復興時などにおいて、その人材に普通では考えられないスピードでもってスケールの大きい計画を立案させました。人材育成の気持ちは晩年になっても衰えず、若者を育てる今でいう「ボーイスカウト」の活動にも力を入れていたようで、その情の深さは生涯、続いたようです。

すごい人がいるものだと圧倒されつつ、なにかすがすがしい読後感があるいい伝記でした。


さ、明日の講義の準備にとりかからなくちゃ。研修で人材を育てるのも私の一つの使命なのかもしれませんから。